疾病と世界史 ウィリアム・H・マクニール

序論

病原菌を含むあらゆる寄生体にとっての絶えざる難題は、いかにして一個の宿主から他の宿主に移動するかという問題である P.36

宿主(ヒト、動物など生物)が移動しなければ、病原菌は移動できない。宿主の移動が活発化するほどに、病原菌の移動範囲も広がり、感染可能範囲も広がる。

第一章 狩猟者としての人類

ほとんどすべてのミクロ寄生生物は小さすぎて肉眼では見えない。ということは、顕微鏡その他、ヒトの観察力の巧妙な補助手段が開発されるまでは、誰ひとりそうした生物体との遭遇なるものを理解した者はいず、それをコントロールすることもろくに出来はしなかった。ヒトは、実際に目で見、手で試すことのできる物を扱う場合には、あれほどの働きを示す知力を備えているというのに、ミクロ寄生生物と人類の関係は、19世紀に到るまで、大体において生物学的だった。つまり意識的な制御の能力の及ばぬものだったのである。 P.69

それまで見えなかった小さなモノ=ミクロ寄生生物が、技術革新により、見えるようになることで、問題=感染を認識できるようになった。

 

第二章 歴史時代へ

アフリカの熱帯雨林とそれに接するサバンナ地帯という、地球上で最も頑強にして多様性に富んだ自然生態系のただ中で、食物連鎖を短縮しようとする人類の試みは、まだとても成功したとは言い難い。…支配的生態系がアフリカほど複雑精緻でなく、したがってそれを単純化しようとする人類の行動に対する抵抗力が強くない地方に比べて、アフリカが文明の進歩から取り残されがちな最大の理由なのである。P.96

=ジャレド・ダイヤモンド

 

多くの場合、いや恐らくすべての場合に、すみやかなそして半ば破滅的な最初の適応作用が発動したであろう。宿主と病原体の死滅という事態が繰り返されるうちに、やがて、新しい宿主のポピュレーションには獲得免疫が生じ、一方寄生生物の側でも適切な適応が行われて、感染症は次第に恒常的なものとなって定着する。 P.107

 

そして、オーストラリアの野ウサギと粘液腫症の例。

 

新しい病気の安定したパターンが成立するのは、双方が最初の衝撃的な遭遇をなんとかしのいで生き残り、適切な生物学的、文化的適応((文化的適応の点でもちゃんとアナロジーは存在する。…イギリスの野ウサギは、粘液腫症の発生という事態に対して、従来よりも長い時間を地上で過ごし、穴の中にいる時間を短縮するという反応を示すようになった)によって互いに許容し得る調停を果たした時、初めて可能なのである。そして、この適応の全過程で、バクテリアとウイルスは、世代の交代する時間がはるかに短いという利点を備えている。…ヒトのポピュレーションが全く新しい病気に対して示す反応が沈静化するには、およそ120年から150年かかるということになる。P.109,110

 

宿主と寄生生物の間に出現しつつある均衡構造が、なんらかの新しい「外部」からの侵入によって乱されない限りにおいての規則性である。…例えば、季節による温度と湿度の差は、温帯に位置する現代の大都市における小児病を、春季に多発させているといった具合である。 P.111

 

現代の都市共同体ではしかの感染が持続していくためには50万人という数を必要とする P.115

 

第三章 ユーラシア大陸における疾病常生地としての各文明圏の間の交流

インド洋と南シナ海における航路の開発がもたらした目覚ましい結果のひとつに、インドの宮廷文化が、キリスト紀元の始まる少し前ころから、東南アジアの大河流域といくつかの島嶼に移植されていった事実がある気温そして時には湿度さえもっと高くなるという気候上の特質を除けば、ガンジス川流域に非常によく似た広大な地域が、こうして文明的発展の道を歩み始めた。だが、何世紀もの間、こうして出現した東南アジアの諸国家は、そのほとんどが野生のジャングルに囲まれ、そこだけが孤立した文明の移植地だった。農耕によって次第に周囲の密林を切り開いていく開発は、現在でもまだ充分に成し遂げられたとは言えない。この自然環境における文明圏の拡大が比較的緩慢だったのは、雨の多い熱帯の風土にヒトの稠密なポピュレーションを集中させようとするとき必然的に生じる、衛生上の難関のためだったことは、ほぼ確実である。マラリアデング熱を先頭に、飲み水を介し消化器官を侵す感染症がその後に続き、さらにそれらを運良く切り抜けたとしても、雑多な多細胞の寄生生物の複雑きわまる系列が餌食を待ち構えているという、この幾重もの強力なミクロ寄生が、人口の増加を抑制して、中国やインドのような巨大文明を支えるほどの膨大な数に達するのは妨げたのだ。東南アジアの大河流域が、大文明の興隆を許すだけの充分な地理的スペースを備えていたにもかかわらず、中国帝国いやインドの諸王国にさえ比肩し得るほどの強大な国家が、かつて一度もここに出現したことがなかったという事実は、少なくともこの推定の正しさを裏付ける。 P.188

第四章 モンゴル帝国勃興の影響による疾病バランスの激変

これまではただ神話と慣習が、行き当たりばったりに試行錯誤を重ねながら、病気の被害を絶え得る限度内に抑え込むべき実行可能な行動様式を決定してきたのであり、人類はそれを受け入れてきたのだが、代わって今度は近代科学としての医学が新しい行動の規則を考案し、国際的な隔離検疫体制といった世界的規模の行政上の枠を設け、万人がこの新しく規定された行動様式に黙って従うよう強制した、ということなのだ。そして、このような視野に立って眺めると、20世紀医学と公衆衛生行政の輝かしい勝利もそれほど目新しいものに思えなくなってくる。 P.21

行動様式を規制するものが、神話・慣習から医学へと変わった(だけ)

 

1665年のロンドンにおけるペスト大流行を最後に、パストゥーレラ・ペスティスは北西ヨーロッパから引き揚げて行った。…隔離検疫その他の公衆衛生上の措置が、ペストの発生をこのように全面的に抑えてしまうのに決定的な役割を果たしたとは、あまり信じられない。むしろ、ヨーロッパ各地の住民がノミおよび齧歯類と共存するその生活の仕方に、何らかの変化が誰も気が付かないうちに生じた、ということが大きいのではあるまいか。例えば、西ヨーロッパの多くの土地で、木材の不足から石造りや煉瓦の家が普通になったが、これは同じ建物に住む人間と齧歯類の間を以前よりも大きく隔てることとなり、ノミが死にかけているネズミから感受性あるヒトに移行するのがきわめて困難になる道理だった。わらぶき屋根は特にネズミの隠れ家にもってこいなので、ノミが天井から下にる人間の上に落ちてくるのは容易だった。1666年の大火後、ロンドンではわらぶき屋根が全面的に瓦に代わったから、こうした形の感染の移行は大幅に減少した。だから、大火事がどういう具合にかロンドンからペストを追い払ったのだという、民衆の間に信じられていた通世tうは、事実ある根拠を持っていたわけなのである。P.42

(フランベジア、ハンセン病が感染経路を変えた)原因は何か。…冬に暖かい衣料がなく、居住空間を暖める燃料にも事を欠く場合、…体を密着させあうことしかない。…14世紀にあれだけ大勢の人間が死んだ…木材と羊毛がそれだけ多く出回るようになった…さらに、気候が寒冷化して14世紀にははっきり冬の気温が下がったので、…ちゃんとした衣類を身につけなければならないことになった…14世紀から17世紀の間に西ヨーロッパが毛織物生産を著しく発展させたのは周知の事実である。…おそらく農民さえもが以前より完全に肌を覆うことができるようになったのであり、そのことによって…皮膚から皮膚へという古い伝播のパターンを断ち切ったのであろう。P.49-51

人口減少、寒冷化、衣服の充実という変化が、結果的に感染症を抑えた。

 

ヨーロッパがペストとの遭遇から受けた心理的、経済的、文化的諸影響…ドイツとドイツに隣接する地方では、鞭打ち苦行者の集団が、お互い同士血みどろに打ち合うことと、ユダヤ人を襲撃することで、神の怒りを和らげようとした。…(こうした攻撃は)ユダヤ人社会の中心地の東方への漸進を加速させることになったと思われる。ポーランドは、ペスト来襲の第一ラウンドをほとんど完全に免れた国だった。…王権はユダヤ人…を庇護した。だから、これ以後の東欧ユダヤ人社会の発展は、14世紀の民衆が示したペストへの反応の結果という面がかなりあったといえる。そしてヴィスラ、ニーマン両河流域地方における市場主導型の農業の急速な進展についても、これはユダヤ人の指導によるところが大きかったから、やはり同じことが言えそうである。P.56

ペストはユダヤ人社会に悲劇をもたらし、東欧はその恩恵にあずかった。

 

ペストによって引き起こされた大混乱は…ヨーロッパ全体の文化と社会に、或る二つの大きな価値の転換が生じた…トマス・アクィナス(1225-74年)の時代を特徴づける主知的神学への信頼は、このような試練に耐えて生き延びることができなかった気まぐれで説明のつかぬ破滅をも視野に入れた世界観だけが、ペストの冷厳な現実と両立し得た…もっと私的で反戒律的な神への接近…個人的神秘主義その他様々な形を取った神との霊的合一の実践…

 第二に、教会の既存の儀式と聖礼典の手法は、…ペストの出現に対処するにはあまりに不充分で、むしろ信仰心をぐらつかせる結果を広げるほどだった…14世紀には大勢の僧侶が死んだ。そして後継者たちはまだよく訓練されていず、しかも彼らが相手にしなければならなかった群衆は、…これまでになく冷笑的になってしまった連中だった。ペストが或る人間を斃し他の者を見逃すその不条理のうちには、神の正義など到底求むべくもなかった。…もちろん、反権威主義キリスト教のヨーロッパで何ら新しいことではなかったが、1347年以降、これはより公然とまた広い範囲に浸透してゆき、後代のルターの成功を準備するひとつの要因ともなった。P.58-60

 

教会特有のどうしようもない硬直性とは打って変わって、諸都市の行政当局特にイタリアのそれは、激越な悪疫の挑戦にかなり素早い対応を見せた。…埋葬措置を指導し、食糧の供給を確保し、隔離検疫を設定し、医者を雇い入れ、その他流行時における公的、私的な行動規制を定めるなど、大わらわの活躍を示した。…この活力こそ、1350年から1550年の2世紀間に、ヨーロッパの諸都市、…ドイツとイタリアで、都市国家が一種の黄金時代を迎えた原動力だった。…これまでに無く世俗的な生活と思想の様式を作り上げ、それは1500年ころまで、全ヨーロッパの強い関心を集めることとなった。中世的文化価値からルネサンスのそれへの移行が専らペストのおかげだったなどと言うことはできないけれども、ペストの流行自体と、市政当局がペストの猛威になんとか対抗しようとした手段が概して成功を収めたという事実とは、ヨーロッパ人の感受性の変容になにほどか影響しないはずはなかった。P.61,62

神ではなく、人の能動性によってペストに対抗できる、という事実が、ルネサンスという思潮の背景にあった。

 

第五章 大洋を越えての疾病交換

アメリカ原住民の諸文明は古代のシュメールやエジプトと似た点が多く、16世紀のスペインやアフリカのように、疫学的に痛めつけられ続けて強靭になってしまった共同体とはまるで違っていたと言うことができる。…

インディオによって後に家畜化されることになる各種の動物は、……だから、ひとたびヨーロッパとアフリカのありふれた小児病との接触が開始されると、メキシコとペルーのインディオ住民全体が、一挙にその犠牲となってしまった…P.84,85

 

ヨーロッパでも、ほかの文明の中心地でも、住民がすでに馴れっこになってしまった疫病の流行が、次第に頻繁になっていったと思われる。少なくとも主要港湾都市など交通の中心地ではそうだった。しかし、再発する間隔が次第に短くなってゆく感染症は、必然的に小児病と化してしまう。…一見矛盾しているようだが、病気に侵されることの多い共同体ほど、病気の流行によって損害を受けにくい、ということになるのだ。亡くなった子供の代わりにまた子を産んで育てる費用は、ごくまれにしか疫病に襲われない共同体でのように、大人が大勢死亡した場合の損失に比べたら、微々たるものだったと言える。P.115

共同体単位の話。それなりに大きな共同体は、子供も大人も死ぬ深刻な感染症を次第に、子供が時々死ぬ病気=小児病に飼いならすことができる。

 

以後何千年かの間に、これら文明に特有の感染症は二重の役割を演じた。そのひとつは、いままでは孤絶していたが文明中心地からやってきた保菌者と急に接触し始めた共同体の住民を多量に斃すことで、こうした小さな原始的集団を、膨張を続ける文明社会の支配体制内に吸収しやすくするという役割だった。他方その同じ感染症が、文明化した共同体そのものの内部にあってあまり文明化していない部分を襲い、特定の都市や地方の共同体に侵入して、孤絶していた住民に対するのと同様の、大量殺戮の力を発揮することがあった。P.117

侵略者、支配者を後押しする感染症

 

第六章 紀元1700年以降の医学と医療組織がもたらした生態的影響

輸送手段の進歩、改善によって、食糧の集配パターンがますます効果的となり、地方的な飢餓を防止できるようになった。食品の貯蔵技術も同様に重要な意味を持った。例えば、密閉保存法は1809年フランスで発明され、発明者が政府から多額の報奨金を得た(訳注 二コラ・アペールによる瓶詰の発明を指す。缶詰が主体となるのはもっと後のことである)P.166

 

ひとこと感想: