『日本近代史』坂野潤治 ちくま新書

第4章 運用 1880‐1893

憲法発布

 

すでに記したように、大日本帝国憲法の発布前後から、政府は衆議院の多数の動向を無視する「超然主義」を、はっきりと打ち出していた。他方、日本で最初の総選挙で有権者の大半を占めた「田舎紳士」は、政府との正面衝突を主張する自由党を支持した。21世紀初頭の今日にわれわれが毎日のように眼にする「ねじれ国会」程度の事態ではなかったのである。政府提出の予算案は毎年議会に拒絶され、反対に自由党などの「民党」が衆議院を通過させた地租軽減案は、旧大名と官僚の天下りによって構成される貴族院により廃案に追い込まれた。政府は歳出予算を増やすことができず、反対に自由党などは減税法案を成立させられなかったのである。

 このような膠着状態をもたらした一因は、大日本帝国憲法そのものにあった。

 明治憲法の中で一番悪名高いのは、第11条の統帥権の独立と第55条の国務大臣単独責任制である。前者は1931(昭和6)年の満州事変以後の現地軍の暴走の原因となり、校舎は1941(昭和16)年の対英米開戦やその終戦に際しての、首相以下各大臣の責任の譲り合い(無責任体制)の原因として知られている。P.226

 

 面倒なのは、保守系の山県系から出た桂太郎が結成した立憲同志会(1913年)が、伊藤博文西園寺公望の跡を継いだ原敬立憲政友会にくらべて、より自由主義的だったことである。軍部と官僚閥の牛耳をとってきた山県閥が、より自由主義的だった伊藤弘喜、西園寺、原の率いる政友会よりも、自由主義的な政党(立憲同志会→憲政会→立憲民政党)を結成してしまったのである。

 このため今日においても、「大正デモクラシー」という言葉を聴いて、立憲政友会の「平民宰相」原敬を想起するか、それにとって代わってロンドン海軍軍縮を実現した、立憲民政党浜口雄幸を思い出すかは、人それぞれという状況が続いている。P.237

第5章 再編 1894-1924

10年近く唱え続けてきた、行政費を減らして地租を軽減せよという基本政策を捨てて、減税はいいから地方に鉄道を普及せよ、という「積極政策」に転換するには、よほど大きな状況の変化が必要であった。日清戦争の勃発によるナショナリズムの高揚と、戦勝による申告からの賠償金(約3億3000万円。戦争前の年間国家歳出は約8000万円)の獲得とが、「民力休養」から「積極政策」への自由党の方向転換を可能にさせたのである。P.244

緊縮からの転換に、戦争によるナショナリズムの高揚と、賠償金が必要だった、と。

 

自由党の最大支持基盤は農村地主であり、彼らが負担する地租は金納固定税であった。米価をはじめとする農産物価格が騰貴すれば、地主の税負担は減少するシステムであった。このシステムの下で日清戦争中から戦後にかけて物価が騰貴し、米価も高騰を続けた結果、1898年には戦前の二倍以上になっていた。税負担が半減した農村地主は、戦前前のように地租の軽減を求めてはいなかったのである。

 主要な納税者がもはや減税を求めておらず、清国からは戦前のねんかんさいしゅつの四倍の賠償金が入ったのである。板垣をはじめとする自由党指導者が、「富国」と「強兵」の同時実現を期待しのも、無理な話ではなかった。P.251

 

戦争が追い風になった自由党板垣退助

 

1890(明治23)年の議会開設時から全く変わらないこの政治社会の停滞を見ていると点実はコップの中の争いにすぎなかったように思われてくる。同様に、「超然主義」を信条とする藩閥官僚と衆議院議員の選出兼を独占する農村地主やその代表たる自由党や進歩党との対立や妥協の繰り返しも、所詮コップの中での変化にすぎなかったような気がしてくる。

 …自由党や進歩党が、わずか50万人の農村地主だけを基盤として藩閥官僚と対立しようとも強調しようとも、「再編の時代」とは基本的に無関係だったことになる。…「運用」から「再編」へのカギを握っていたのが、選挙権の拡張、その完成としての普通選挙制の実現だったことには、もはや多言を要さないであろう。P.258

 

第6章 危機 1925-1937

1945年の敗戦以後のいわゆる戦後民主主義の発足に当たってそれを支えたのは、主としてこの「危機の時代」の抵抗勢力だったのである。P.391

次の時代を担うのは、その前の時代で奮闘した者。

1933年3月の日本の連盟脱退の経緯も結果も相当に複雑なものであり、それが最悪の選択だったとは断言できないし、この一事をもって日本が「世界の孤児」になったというのも、短絡的な理解にすぎる。P.394

 

井上寿一の著作を読んでみよう。